定年。

ゲンさんのバイク バイク

1500ccの大型バイクが、店の駐輪場に入って来た。
ロングストロークのVツインサウンド。
ゲンさんだ。

いつも日曜日に来るのに、平日の来店。
どうしたのかな。

エンジン音から異常は感じられない。
転倒でもなさそうだ。
ヘルメットを脱いで、グローブを外しながら歩いて来る姿に、元気がない。
バイク以外で、何かあったのかな。

いらっしゃいませ。ゲンさん。コーヒー淹れますね。
「おう。」
カウンターに座る表情が曇っている。
元気がない理由は、バイク関係じゃないみたいだ。

ゲンさんは、コーヒーに砂糖とミルク。両方入れる派だ。
湯気の立つ熱いコーヒーにチョコレートを添えて出す。
どうぞ。
「おう。ありがとな。」

他にお客さんはいない。
何も訊かずに、ゲンさんが話すのを待ってみよう。

コーヒーを飲みながら外を見て、ため息。
「参ったよ。」
ゲンさんが、話し始めた。

「定年したんだよ。俺。先月。」
おめでとうこざいます。だから平日に来られたんですね。長年のお勤め。お疲れさまでした。何年勤められたんですか?
「18からだから、42年か。」
晴れて自由の身ですね。羨ましいです。
「そうなんだけどな。」
どこへでも走りに行けるじゃないですか。いつでも。
「そうなんだけどな…。」

表情は、固いままだ。

「女房がな。出てった。」
……。

「最終出勤日にな、家に帰ったらな。女房に言われた。
『私も、定年させていただきます。』だと。
……。
「テーブルの上に書類を並べてさ。
 見事に揃ってるんだ。
 預金通帳とか保険の証書、年金手帳とか、全部。
 計算も終わっててな。
 あとは俺がサインするだけになってるんだ。
 ずいぶん前から用意してたんだな。
 毎日少しづつ準備して、何度も見直して、俺の定年を待ってたんだ。
 顔に、迷いがない。
 声とか言い方にも、迷いがないんだよ。
 『全部済んでますから、これでお願いします。』って、
 そのまま出てった。」

引き止めなかったんですか?
「止めても、無駄だよ。そういう顔してた。」

理由も、訊かなかったんですか?
「理由は、俺だ。間違いない。我慢してたんだな。あいつも。ずっと。」

あいつも?
「俺は、我慢して仕事してきたんだ。
家族のために。ずっと我慢してな。
あと何年で定年だから、それまでは頑張ろうってな。
今年は特に、残りの出勤日を毎日数えて、やっと退職日を迎えたんだ。
でも、俺だけじゃなかったんだな。
女房も、俺が定年になる日まではって、我慢して家に居てくれたんだな。
用意された書類を並べられて、女房の顔見て初めてわかった。
それまで、気付かなかったなんてな…。
何も言えなかったよ。」

そうだったんですか……。

次の言葉がみつからない。
長い沈黙になってしまった。

ゲンさんは真面目で、いい人だ。
バイク屋の客としてのゲンさんしか知らないけど、いい人だ。
今時の、明るいタイプじゃない。
昭和の頑固オヤジ。
第一印象は固いイメージ。口数は少ない。
曲がったことはしない。許さない。
会社では、自分にも部下に厳しい上司だっただろう。
家でも、頑固な父親だったんだろうな。

家族のために40年以上働いて、やっと自由になれた日。
今まで仕事ばっかりだった分、これからゆっくり家族と過ごせるな。
そう、思ってたのに。
仕事と一緒に、奥さんまで失ってしまった。

もう、社員証はない。
家族もいない。
家で、急に一人になってしまったゲンさん。

寂しいだろうな。

「店長、すまんな。」
何がですか?

「何も用事ないのに来て、邪魔したな。」
いいえ。来てくれて、嬉しいですよ。

「ここのコーヒー。美味いからな。」
ありがとうございます。

「また、オイル交換。頼むわ。」
お待ちしています。

ヘルメットを持って歩き出すゲンさんと一緒に、駐輪場へ歩く。
自然にバイクを一周りして、マシンの状態を確認する。

銀色に光るスポークホイール。
タイヤの溝も充分だ。
黒いレザーシート。
マフラーからエンジンのフィンまで、綺麗に磨かれている。
ゲンさんの真面目さそのままに、よく手入れされてる。
問題ない。

バイクを見ればわかる。
ゲンさんの厳しさ、頑固さは、愛情の証なんだ。
奥さんも、それがわかったから一緒になったんだよな。きっと。
でも、疲れちゃったのかな。
もっと、わかりやすい愛情表現が欲しかったのかな。

「じゃあ、行くわ。」
ありがとうございました。お気をつけて。

ゲンさんのバイクが、国道に消えていった。

(2014年。50歳)

あれから10年。

ゲンさん。お元気ですか?
僕は今年、60歳になります。
神社で本厄払いをお願いしたら、ゲンさんを思い出しました。

僕はいろいろあって、定年まで勤め上げられなかったです。
悩んだ末に早期退職を決断して、新しい土地で自由な生活を始めたのに、ずっと気が晴れずにいました。なんででしょうね。

辞めたことに後悔はないんです。
続けることができない状況だったし、あれ以上無理したら完全に壊れてた。
でもなんか、割り切れない。

退社する以外に、いい方法はなかったのか。
乗り切れる手段。最善策。
考えてもしょうがないのに、気が付くと思い出してます。
もう何の責任もないのに、会社が抱える問題の解決方法を考えてる。
長年勤めたサラリーマンの癖が抜けないんですね。

でも幸い僕には、家族がいます。
一緒に退職を乗り越えてくれた妻が、一緒に居てくれてます。
それだけで、ありがたい。

よく考えてみれば、違う土地で生まれた二人が死ぬまで一緒に暮らすって、不思議なこと。
もっと感謝しなきゃですよね。

ゲンさんが通ってくれたあの店は、もうありません。
店長だった僕は、あの後3回転勤して退社しました。
今は、遠く離れた街で暮らしています。

オートバイの調子はいかがですか?
どうか、お元気で。

(2024年2月。59歳)

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