奇跡の時間。

エッセイ

彼女が、助手席のドアを閉めた。
いつもなら「ありがとう。気をつけてね。」って手を振るのに、
今夜は、開けた窓の外から僕を見てる。

「上がってく?」
いいの?
「うん。」

彼女の家に上がるってことは、ご両親にお会いする。のかな。
ご挨拶の言葉、考えてない。
心の準備もできてないよ。
緊張する。

シャツのボタンを留めて門を入ると、
雑種の白い犬が走って来た。
しっぽをブンブンと振って僕を見上げてる。
かわいい。
保健所からもらって来た子だね。
はじめまして、こんばんは。よろしくね。

「あら、いらっしゃい。」
お母様が笑顔で迎え入れてくれた。
いつも最初に電話に出てくれる、聞き慣れた明るい声。
お父様も出て来られた。
思わず「気を付け!」の姿勢になる。

こんばんは、はじめまして。〇〇と申します。夜分に申し訳ございません。お邪魔させていただきます。よろしくお願い致します。

最敬礼。

「固いのは抜きにしようや(笑)。いらっしゃい。どうぞ。」
優しい声に顔を上げると、柔らかい笑顔。ほっとする。

父のいない家で育ったから、男親は苦手だ。どう接したらいいのかわからない。
かわいい娘が彼氏を家に連れてくるなんて、嫌だろうな。
僕なら追い返したい。殴りたいくらいだ。

「あっ、こんばんは。」
居間でテレビを見ていた中学生の弟が、照れながら挨拶してくれた。
学校の成績がいいって聞いてたけど、性格も良さそう。
いい子だな。
〇〇です。よろしくお願いします。

優しいご両親と弟。そして愛犬。
幸せそう。いい家族だな。
「幸せな家族」なんてドラマの中にしか存在しないと思っていたから、びっくりした。
実在するんだな。初めて見たよ。

でもこの笑顔、普通じゃない。
凄い不幸を乗り超えた人の「気」を感じる。
何か、あったのかな。

ご先祖様にご挨拶させていただくために、奥の部屋に通してもらった。
仏壇の前。
正座して線香に火をつけ、手を合わせる。

この位牌。もしかして……。

彼女の弟さんだった。
享年4歳。
近くの川で水の事故。
凄く優しい、天使みたいな男の子だったらしい。

手を合わせたまま、20年前に思いを馳せる。
どんなに、苦しかったことだろう。
ご本人も。残された家族も。

小さい子を亡くす辛さなんて、想像できないよ。
やっぱり、一生消えない悲しみを背負って生きる人達だったんだ。

ご長男が亡くなった2年後に生まれて来てくれたのが、次男さん。
家族全員で、乗り越えようと生きて来たんだね。
だから、この笑顔なんだね。

僕は、幸せな家族の作り方を知らない。
ずっと不安だったけど、この家で育った子なら、きっと知ってるだろう。
彼女となら僕も、幸せな家庭を持てるかもしれないな。

(1991年 27歳)


あれから32年。いろいろあった。
僕の親友になってくれた白い犬は、天国に行ってしまった。

お義母さんが、化膿性脊椎炎で長期入院。
やっと退院できたと思ったら、大腸がん。
たまたま、神社で知り合った人が名医を紹介してくれて緊急手術。
術後の転移もなく、今、妻の実家で元気に暮らされている。

お義父さんが、脳梗塞で倒れた。
散歩中に後ろ向きに倒れて後頭部から出血。発見された時、意識はなかった。
心臓ペースメーカーを埋め込んで、障害者1級。
ろれつが回らなくて聞きにくいこともあったけど、今は車の運転ができる程に回復されている。

妻が、子宮筋腫で全摘。
術後の病理検査で希少がんを宣告された。
抗がん剤投与を断って、セカンドオピニオン。
経過観察中にPETーCT画像が光って転移の疑い。生体検査入院。
異常なし。
その後も転移なく、元気に暮らしている。

妻が生き残れて良かった。
長男を亡くされたご両親から、僕が預かってるんだ。
ご両親より先に、死なせるわけにはいかないよ。
本当によかった。

僕が、パラグライダーで墜落。
激痛に耐えながら、死を覚悟した。
ドクターヘリ。集中治療室。3回の手術。リハビリ総合病院。
たくさんの人のお世話になって3年、まだリハビリを続けている。
杖がなくても歩けるようになった。

妻の弟も元気だ。
今、誰も入院していない。

来月の家族旅行。
温泉旅館での食事を楽しみにしている。
それだけで、奇跡なのかもしれない。
ありがたい。

ずっと、このままでいられたら……、
その願いは叶わない。知ってます。
僕の両親が、そうだったから。

この奇跡の時間もいつか、終わる日が来る。
10年続くかもしれないけど、明日壊れるかも知れない。
永遠に続くことなんて、何もないんだ。

この時間が壊れることを恐れるより、今、大切に生きよう。
楽しもう。
笑って過ごそう。

「あの頃、幸せだったよね。」っていつか、微笑んで思い出せるように。

(2023年 59歳)

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