フラッシュバック。
消灯後の病室。窓からの月灯りで白い天井を見上げている。
もうすぐ、日付が変わる。
そっか。怪我してちょうど1ヶ月。経つんだな。
そう思った途端、墜落の瞬間に意識が飛ぶ。
またか。何度目だよ。もういいよ。
抑えようとしても、脳内スクリーンに再現映像を映し出されてしまう。
鮮明に。
下からの風に煽られて、着陸場に降りられない。通り越したら崖の上。
Uターンしたけど、やっぱり降りられない。また通り越してしまった。
高度10mくらいで2度目のUターン。
直後に見えたのは、凄いスピードで迫る地面だった。
ヤバイ。地面に突き刺さる。
走れる角度じゃない。足から落ちたら両足骨折。膝から骨が飛び出すだろう。
腰から落下。衝撃の勢いで前転して、顔面から地面に突っ込んで止まった。
骨盤と仙骨が割れて、背骨も潰れた。前歯も折れた。
あの選択は、正しかったのかな。
激痛で開けた目に見えたのは、ヘルメット内側の白。緑の草。黒い土。
腰から下が石の塊になったような凄い違和感。
これ、死ぬかもな。
腰の骨折は間違いない。内臓も無事じゃないだろう。
もうすぐ、破裂した内臓液で腹が膨れて吐血して、気道と肺が血で詰まって呼吸ができなくなる。
心臓が止まるのはその後かな。
救急車が来た頃にはもう手遅れだな。長く苦しむことはなさそうだ。
なんだよ。意外と冷静だな。
心臓が止まっても、脳の機能が完全に無くなるまでは意識あるのかな。
視覚信号を脳が受信できなくなって見えなくなるまで、目は開けておこう。
土と草しか見えないけど、暗闇よりはいい。
最後に見えるものって、こんな物なんだな。
俺の人生、これで終わりか。
思ってたより、あっけないな……。
左足がピクっと動いて、我に返った。
墜落した夏の山から、病院のベッドに戻ってきた。
生きてる。足もある。
あの時、足から落ちてたら、両足とも切断されたかもしれない。
昨日も、リハビリ室に両足のない人がいたな。
両足義足か。
この足がないなんて……。怖すぎる。
今、生きてるんだから、足があるんだから、腰から落ちて正解だったんだ。きっと。
あれからもう、1ヶ月経つんだな。
でも、まだ1カ月。リハビリは始まったばかりだ。
いつまで続くんだろう。
そもそも、リハビリにゴールなんて、あるのかな。
頑張るしかないけど。
歩行練習。
長い夜が明けた。また朝が来た。
リハビリ室。
マッサージ台で仰向け。歩くための筋力を意識して鍛える練習から始まった。
「お尻の穴を閉めてみて下さい。歩く時に使うお尻の筋肉が動きます。」
はい。
ああ、これか。
尻に力を入れると、左右の大きさが違うのがわかる。こんなに違うんだな。
左尻の肉がない。おじいちゃんみたいだ。
固定されて身動きできないと、筋肉って、こんなに減るんだな。
いっぱい食べて、動かさなきゃな。
平行棒に移動して左足荷重。
今日も体重の3分の1。26kgだ。
体重計の針を見ながら左足を載せていく。
弱った筋肉に血が流れるのがわかる。
荷重を増やすと、ふくらはぎの筋肉が血流で熱くなる。
こんなに細くなったのに、精一杯頑張ってるんだな。
傷ついた神経が圧迫されて、針金のような痛みが走る。
「ご自分で、今の感覚を覚えて下さい。体重計がなくてもわかるように。」
はい。
体重計を外して、床に付けた左足に体重をかけていく。
26kg荷重した時の熱。痛み。圧力になるまで、もう少しかな。
数値が見えないと怖いな。あのカミナリが落ちそう。
「左足に荷重し過ぎないように、歩いてみてください。」
はい。
両腕で平行棒を持って体重を支えて、歩いてみる。
右足は全荷重。左足は最大26kg。
こんな歩き方はしたことがない。
左足にカミナリ電流が走るのが怖いけど、感覚を思い出して歩く。
3mの平行棒を1往復。歩けた。
また一歩、前に進めた。
移乗試験。
病室に戻ると、看護師さんが来た。
「〇〇さん、いじょう試験しましょうか?」
いじょう。ですか?
「移動の移と乗車の乗で移乗です。ベッドから車椅子への移動が、お一人で安全にできるかを見ます。リハビリ担当のPT(理学療法士)さんからの提案を受けて、看護師が確認します。合格すると、トイレに一人で行けるようになりますよ。」
お願いします。
ベッドに横付けされた車椅子。アームレストを押して、ブレーキがかかっていることを確認する。
ベッドの枠を持って立ちあがる。重心は右足。左足の荷重は1/3以下になるように気をつけて、車椅子のアームレストを掴む。
ベッドの手すりから手を放して、右足を軸に身体を回転。両腕で車椅子のアームレストを握って、尻を降ろしていく。
座れた。
「できますね。」
僕がよろけたら支えられる体勢で見守ってくれた看護師さんが、微笑んでくれた。
「トイレに行ってみましょうか。」
はい。
車椅子のタイヤを回して、病院のトイレへ向かう。
カーテンを開いて車椅子を便器に横付け。
ブレーキをかけて、トイレの手すりを掴んで、右足重心でトイレへ。
座れた。
「できますね。ベッドに戻りましょうか。」
車椅子で病室へ戻り、ベッドに移る。
近くで見守る看護師さんはもう、サポートの姿勢になっていない。
「合格です。おめでとうございます。」
ありがとうございます。
「お一人で移乗できることを確認できましたので、朝食後から消灯時刻までの車椅子移動を許可します。消灯後はこれまで通り看護師が付き添いますので、ナースコールして下さいね。」
はい。
朝食後から消灯まで、病室階の移動が一人でできるようになった。
嬉しい。
車椅子入浴。
「お風呂行きましょうか。」
いつも3人がかりで青いストレッチャーを運んで来る看護師さんが、今夜は1人で青い車椅子を押して来た。
「これに移れる?」
はい。
一人で車椅子に移れた。
「回復早いね。凄いよ。」
ありがとうございます。
脱衣所に着いた。
「自分で服脱げるかな。」
脱げます。
上を脱いで脱衣籠へ。ズボンも、トイレと同じ要領で脱げた。
女性の看護師さんの前で全裸での車椅子は、まだ恥ずかしい。
脱いだ服を棚の籠へ入れて浴室へ。
銭湯みたいに鏡が並ぶ洗い場に車椅子を寄せる。
「自分で洗えるかな。」
やってみます。
シャワーヘッドは、車椅子でも手が届く位置にセットされていた。
お湯の温度を確認して、自分で身体にお湯をかける。
左腕から、頭、顔、胸、腹、足。
自分でお湯をかけられるっていいな。
膝から下を洗おうとして身体を曲げると、腰と背中に痛みが走った。
これ以上は曲げられないか。
でも、どうにかして自分で足先まで洗いたい。
洗面台に足を載せて、腕を伸ばしてみる。届いた。
痛いけど、なんとか洗えた。
「今日はシャワーだけね。湯船はまだ。滑ると危ないから。」
洗い流したシャンプーや石鹸で、濡れたタイル床がぬるぬるしてる。
そうだよな。床は固そうだし、滑って転んだら大変だ。
患者の回復に合わせて考えられてるんだな。ありがたい。
身体を拭いてベッドに戻ると、ほっとする。
お湯で温まったし、髪も顔も洗えてさっぱりしてる。気持ちいいな。
自分でシャワーを浴びられるようになったのは嬉しいけど、車椅子で座ってる間ずっと右太腿が痛いから、ゆっくりはできない。
お湯の中で身体を伸ばしている時間は痛くなかったな。
頑張って、また湯船に入れるようになれるといいな。
ベッドで仰向けになると、左足がピクピク動き出した。
左の腰と左足が痛い。
痛み止め飲んだのに、効かないな。飲む意味あるのかな。
でも今日また、できることが増えた。
少しづつ、一歩づつだけど、前に進めてる。
「凄いね」って褒めてもらえた。
リハビリ初めてだけど、順調な気がする。
2歩下がる日も来るだろうけど、多分、これでいいんだ。
頑張ろ。
エレベーター試験。
数日後、リハビリ室から病室に戻ると、看護師さんが来た。
「リハビリ順調みたいですね。今日、エレベーター試験しましょうか。」
はい。
「ここは整形外科の患者さんが入院されてる階なんですけど、エレベーターは脳梗塞で半身麻痺の患者さんも利用されます。ご自分はもちろん、他の患者さんを気遣って安全に乗れるかを見ます。」
お願いします。
看護師さんと一緒に、車椅子でエレベーターを待つ。
車椅子で乗り込んで向きを変えて、開ボタンを押す。
乗り遅れた人はいないみたいだ。
一緒に乗った杖を持ったおばあちゃんがエレベーター内の手すりを握ったのを確認して、
ボタンから指を放す。
1Fに着いた。
おばあちゃんが降りたのを確認して、自分も降りる。
上がるエレベーターが来た。
先に乗って、開ボタンを押す。
両足義足の人が2本杖で乗り終わるのを待つ。
何階ですか?
「4階お願いします。」
はい。
3と4を押して開ボタンから指を放す。
3Fに着いた。
降ります。
声をかけて、車椅子で降りた。
「合格です。今みたいに、他の方に配慮して使ってください。朝10時からのエレベーター移動を許可します。夕方、看護師が全病室を廻って患者さんを確認しますので、17時には病室に居るようにしてください。行方不明にならないようにお願いします(笑)」
わかりました(笑)。
1人でエレベーターに乗れる。
病室のある階だけじゃなくて、他の階にも行けるんだ。
これで、自主トレができるな。
早速、リハビリ室に行ってみた。
他の患者さんをサポートしていたT塚さんが、手を上げて挨拶してくれた。
開いている平行棒に車椅子を寄せて、立ってみる。
3回。できた。
片足の人、両足のない人が歩いている。
みんな、頑張ってるんだな。
頑張ろ。
散髪。
今日から4日間、PTさんの夏休みだ。
リハビリ室に行ってみたけど、閉まっていた。
中を覗いても、明かりが消されていて暗い。誰もいない。シーンとしている。
時間が止まったみたいだ。
何もすることがない。
ふと、床屋さんの看板が見えた。
そう言えば、髪が伸びてる。耳にかかって煩いと思っていたところだった。
車椅子を入口に寄せて、声をかけてみた。
あの、散髪お願いできますか?
「今日は、2時なら空いてるよ。」
じゃあ、それでお願いします。
昼食後、再来店。
「いらっしゃい。ここへ座れるかな。」
理容用の椅子は、ベッドやトイレより座面が高い。
座れると思います。やってみます。
車椅子のブレーキをかけて、理容椅子のひじ掛けを掴んで、よじ登るように座る。
思ったより座面が固いな。
筋肉の薄くなった尻が痛い。右太腿も痛い。これじゃ、長く座ってられないな。
車椅子のクッションを尻の下に敷いてもらった。
痛いけど、少し楽になった。
伸びた髪が切られていく。
耳のすぐ近くに、刈り上げるハサミの音。櫛の感覚。
熟練の技を感じる。
この人、本物だ。いい腕してる。
僕の実家も床屋だった。
小学生の頃から、両親に理容ハサミの使い方を教えてもらった。
使わなくなった古いハサミをもらって練習したな。
3本の指で下の刃を固定して、親指だけで上の刃を動かす。
懐かしい。
あのまま、家を継いで理容師になる道もあったんだよな。
大学進学を理由に19歳で家を出て、そのまま帰らなかった。
家を出なかったら、こんな怪我もしてないかもな。
後悔はしてない。
家を出たことも。空を飛んだことも。
大怪我したけど、たくさんの人に助けてもらって今、床屋の椅子に座れるようになったんだ。
大丈夫。きっとまた、歩けるようになる。
頑張ろ。
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